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武蔵野航海記

武蔵野航海記

西洋哲学を読みました

今回は哲学のことを書こうと思っています。

「哲学」などという難しい文字を使うと即座に拒絶反応が返ってくるとおもいますが、本来は「知を愛すること」という意味で、筋道を通すことだと思います。

色々な学問は守備範囲があって、電子工学は電子のことに限定されているし、医学は対象が人間の体に限定されています。

ところが哲学はこの守備範囲に制限がなく、何でも「突き詰めて考えて」いけば「哲学」になってしまうようです。

医者が人間の体を突き詰めて考え、「病は気から」という事実に着目し、「人間は肉体のほかに心がある」と考えて、心と体の関係を探索していけばこれは「哲学」になってしまいます。

今回、私は一つのことを確認したくて改めて哲学の本を読み漁りました。

それは「哲学と偉そうに言うが、オッサンの思い込みを言葉にしただけのことではないか」ということです。

結論から言うと、私のこの推測は正しかったようです。

哲学といっても、ギリシャ・ローマから現代に至るまでの西洋哲学のほかにインド哲学や支那哲学があります。

日本には残念ながら哲学といえるような伝統がありません。

インド哲学や支那哲学は今回は外しましたが、それは下記の理由によるものです。

一つはこれらの哲学は現代の日本にほとんど影響力を持っていないということです。

二番目の理由として、インド哲学や支那哲学を書いていくと仏教や儒教のことになっていきますが、これを書くと今の日本人は混乱してしまうからです。

日本人が理解している「仏教」や「儒教」は本場のものとはまるで違うということです。

三番目として仏教や儒教はインド人や支那人の思想を代表していないということです。

仏教は今のインドではほとんどゼロの存在ですし、儒教は昔からごく限られた支配者の思想でしかなかったからです。

しかもその支配者たちも実際は儒教など飽き飽きしていたわけです。

こういうわけで、西洋哲学の本を読み漁りました。

少しづつ整理しながらボツボツと書いていこうと思います

私たちは子供のころにギリシャ哲学のことをごく簡単に教わりました。

「ギリシャ哲学はタレスに始まる。彼は万物の元は水だと主張した」

子供たちはこれを聞いた途端に教科書を放り投げます。

この世には水以外に土も鉄もあります。ですからこんなことを聞いても全然納得しません。

それにこんな説が深遠な「哲学」だなどとはとても思えません。そして哲学者などは閑人なのだと理解して、哲学に興味を失って大人になっていきます。

私もそうでした。

実は、つい最近までの人間と現在の人間はものの考え方が全然違うのです。

ものの原則を考え出す方法は、大きく分けて演繹法と帰納法があります。

朝9時に会社が始まるのでそれまでに自分の机に座っていなければなりません。

そのためには、7時半に家を出て7時45分発の急行に乗らなければなりません。

そうすれば9時10分前には会社に着けるのです。

「朝7時半に家を出れば会社に遅刻しない」という原則は、何千回となく朝の通勤を経験して導きだされたものです。

数多くの事実から一つの原則を作り出したわけで、これが「帰納法」です。

ところがこの帰納法は100%信用できないのです。

電車が遅れれば彼は当然遅刻します。

最近、中高年のオッサンが線路に飛び込む「人身事故」により電車が遅れることが増えたので、彼はもう一つ前の急行電車に乗るために、朝7時10分に家を出ることにしました。

このように「7時半に家を出ると会社に間に合う」という原則は暫定的なもので、新しい事実が出てくれば修正しなければなりません。

このように帰納法の結論は頼りないので、古代から近代社会になるまでは、まともな学問的方法とは考えられていませんでした。

帰納法が日常生活だけでなく学問の世界でも公認されるようになったのは、19世紀になってからです。

ですからわれわれは帰納法にすっかり慣れてしまっていますが、古代の哲学は演繹法で考えられていたのです。

演繹法は、はっきり言えば思い付きで何らかの原則を始めに決めます。

例えば、「万物は水だ」とか「万物のもとは原子だ」とかです。

そしてその原則からすべての現象を説明するのです。

帰納法というやり方に慣れた現代人はこんなものを受け入れることが出来ません。

ですから子供たちは教科書を放り投げるのです。

「万物の元は水である」とおかしなことを言い出したタレスは、ギリシャ人で最初の哲学者と言われています。

彼の生没年は良く分からないのですが、紀元前624年に生まれ546年に亡くなったと書いてある本もありますから、今から2600年ぐらい前の人です。

ギリシャのポリスが連合してペルシャ戦争に勝ったことによって、ギリシャは最盛期を迎えました。

このときのギリシャ軍の主力は平民が重装備をして密集して戦ったファランクスでした。

つまり平民が軍隊の主力だったわけで、この実力を背景に民主政治が行われました。

これが始まったのが紀元前500年ですから、タレスはペルシャ戦争より100年ぐらい前の人です。

「イリアス」や「オデッセウス」というトロイ戦争をテーマにした有名な古典がありますが、これを書いたホメロスは何時頃の時代の人か、そもそも彼は存在したのかもはっきりしません。

しかしその作品である「イリアス」や「オデッセウス」は紀元前8世紀の社会、つまりペルシャ戦争より200年ぐらい前の社会を反映していると考えられています。

ここでのギリシャ軍の兵士はみな王侯貴族です。

そして彼らは自分の先祖はオリンポス神話の神であったと出自を誇っています。

つまり、「イリアス」や「オデッセウス」の背景になった社会とペルシャ戦争との間には200年の開きがありますが、その間に王侯貴族が威張っている社会から民主制の社会にギリシャは大変動しています。

そしてタレスはちょうどこの中間に生きていたわけで、時代が大きく変わっている最中でした。

ギリシャ史上最初の哲学者タレスを考える時は、この時代背景を頭に入れておかなければなりません。

なぜタレスが最初の哲学者と言われているかというと、彼は物事を真面目に考えたからです。

ではそれ以前のギリシャ人は真面目ではなかったのかというとそういうことでもありません。

タレス以前のギリシャ人は、物事を「伝統的に」考えたのです。

タレス以前のギリシャは、各ポリスで王侯貴族が頑張っている社会でした。

各ポリスは数万人の小さな社会で、少数の王侯貴族と数千人の成年男子の平民がおり、それ以外には平民の家族と奴隷がいました。

こんな小さな社会ですから、法律などというものはなく、すべての紛争は慣習によって裁かれていましたが、この慣習の源は神話でした。

ギリシャのポリスは最初は王様や貴族が広大な領土を持って威張っていて、
ポリスの内部の政治・紛争解決は神話に基づいて行われていました。

オリンポスの神々の何人かが、そのポリスを作りその子孫が今の王様や貴族だというわけです。

そして、その神話上の神々がしたことがそのポリスの善悪の判断基準になっていて、その判断の積み重ねが慣習になって行きました。

現実に起こっている問題を神話や慣習に基いて判断するのは、その神々の子孫である王侯貴族でした。

こういう状態が長く続いたのですが、やがて盛者必衰の理どおり王侯貴族が地盤沈下し、平民が勢力を増やしてきました。

いつでもどこでも、勢力を増大させている階級は自分たちに有利な原則を求めて作り上げていきます。

勢力を増やしている平民にとってはそのポリスの神話は非常に邪魔になります。

神話は神々の子孫である王侯貴族に権威を与えるもので、神話を多くの者が信じていれば自分たちの出番がないからです。

ポリスの内部で神話に代わる原理原則を求める熱気が溢れてきました。

そういう雰囲気の中で感受性の鋭い者たちが哲学を考え出したのです。

財力を増し力をつけてきた平民というのは貿易業者でした。

彼らは船に乗って遠くの国々までビジネスをやりに行きました。

そこで分かってきたのは、自分の国の神話に基づく慣習と外国の慣習とでは善悪の判断基準が違うということです。

こういうことからも彼らは神話の権威を否定するようになりました。

ギリシャで最初の哲学者であるタレスはミレトスというポリスの出身です。

ミレトスはギリシャ本土でなく、アナトリア半島(現在のトルコ)のエーゲ海沿岸にあり、ギリシャ本土からはみ出した連中が移住して作った町です。

本土から枝分かれしただけあって王侯貴族の力が弱く、商業が盛んで金持ちと貧乏人や奴隷との格差が激しい町でした。

こういう状態なので神話の権威があまりなかったわけで、神話に代わるもっと合理的な原理を求める熱気が町に満ちていたわけです。

こういう背景からタレスの哲学が生まれたわけです。

ここに哲学の基本的な性質がすでに表れています。

即ち、その時代が求める原理・原則を提供するのが哲学だということです。

ですから社会が変わり、その社会の中心となる階層が変わると哲学も変わってしまいます。

後の時代から昔の哲学を振り返ると荒唐無稽でどうにも納得できないのはこういう理由です。

哲学というものは、永遠に真理であり続けるというものではなく、いわば時代ごとの「使い捨て」だという性格を持っています。

ですから逆に言うと、社会を変えたくなかったら哲学を無理やり固定すれば良いのです。

支那の皇帝と高級官僚は社会を変えたくなかったので、儒教を強制したわけです。

こういうわけで支那の社会はなかなか変わらなかったのです。

江戸時代の徳川家を中心にした武士も社会を固定したかったので、儒教のなかでも頑固な一派である朱子学を輸入しました。

タレスは「万物の元は水だ」とおかしなことを言ったのですが、この結論を神話から導き出したのではなく、彼独自の思索の結果こういう結論を出したのです。

神話という合理性に欠けるものを排除して、頭で合理的に考えてこの世界を説明しようとしたわけで、こういう意味で彼は「真面目に」「哲学的に」考えたのです。

ですから彼を後世の人は「最初の哲学者」だとしているのです。


このミレトスからタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスと立て続けに哲学者が出てきました。

タレスは「万物の元は水だ」と言いましたが、アナクシメネスは「万物の元は空気だ」としました。

アナクシマンドロスは「世界には火と土と水からできている」と主張しました。

そしてそのおのおのの元素は常に自分の勢力圏を拡張しようとしているというのです。

しかし均衡を回復させる自然法則があるので、火があったところには灰即ち土ができるというように結局三要素はバランスしているのです。

アナクシマンドロスは「世界は火と土と水からできていて、そのおのおのの元素は常に自分の勢力圏を拡張しようとしている」と主張しました。

しかし均衡を回復させる自然法則があるので、火があったところには灰即ち土ができるというように結局三要素はバランスしているというのです。

自然法則が様々な勢力をバランスさせるという発想は、後代のギリシャ人哲学者の多くも主張していて、この発想は実はギリシャ人に共通のものなのです。

自由とか平等が正義だという発想は近代になって出てきた発想で、古代のギリシャ人はそういうことは重視しませんでした。

彼らが考えた正義というのは、「定まった境界を侵さない」というものです。

人間というものは、本来は不平等なものだと考えます。

社会的な身分や財産、頭の良し悪しや身体容貌の美醜など生まれながらに差がついています。

これは現在の日本も同じであって、人間が平等であったことなど世界の歴史上ないのです。

古代のギリシャ人も人間は本来不平等にうまれついているという厳粛な事実を認めました。

古代アテネは最終的に民主制になりましたが、それはアテネ市民の間だけの平等であって、差別された外国人のほかに奴隷もいました。

その上で、それぞれの人間は他との境界を侵してはならないと考えたのです。

不正な人間が他との境界を侵して自己の勢力を拡張しようとしても、自然のルールがそれを許さないと考えたのです。

私はこのことを知って驚いたと同時に非常にうれしくなりました。

これは日本人の伝統的な発想である「あるべきようは」と同じです。

「あるべきようは」というのは、「人間をはじめとするあらゆる物は、自然の中で無欲に自分のあるべき場所にいるのが正しい」というものです。

同じような発想は古代の支那にもあったようですが、まだ確信が持てる状態ではありません。

すくなくとも古代の日本人とギリシャ人は同じ発想を持っていたのです。

その後、日本人は「あるべきようは」という発想を論理化せずに発展させましたが、ギリシャ人やその後を受け継いだヨーロッパ人は哲学によってこの発想を理論化していきました。

古代のギリシャ人に共通した発想は「それぞれの人間は他との境界を侵してはならない」というものでした。

これは日本人の伝統的な発想である「あるべきようは」と同じです。

ギリシャ人に共通した発想がアナクシマンドロスという鋭敏な神経を持つ哲学者の頭に圧力を加え彼の哲学を作り上げたのです。

アナクシマンドロスの哲学が出来上がると、今度はこの哲学に多くのギリシャ人は納得しました。

このように哲学というのは、決してオジサンが単独で考えたものではなく、その時代の民族の熱気を浴びて作り上げられたものです。

「それぞれの人間は他との境界を侵しても、自然法則は各勢力のバランスを復活させる」と古代のギリシャ人は共通して考えていました。

各勢力のバランスを取るのが正義であり、こういう正義を発動する自然法則はもはや神と等しい存在です。

この発想は、ギリシャ人の信仰だったのです。

ギリシャ人の信仰というと皆さんはオリンポスの神々を思い浮かべると思います。

しかし決してオリンポスの神々だけが彼らの宗教ではありませんでした。

「各勢力をバランスさせる自然法則」も彼らの心の奥に存在した確信であり、ただそれが神だと明確に自覚していないだけでした。

私は多くの日本人に「あるべきようは」の話をしますと、皆が「この発想は凄く良く分かる。私にもこの発想はある」といいます。

ギリシャ人の場合も日本人と同じです。

オリンポスの神々、各勢力をバランスさせる神(日本のあるべきようはと同じ)という神以外にもう一つギリシャ人には宗教があります。

それがバッカス神です。

オリンポスの神々は各ポリスの守護神であり、王侯貴族の先祖とされたギリシャ人の公式の神です。

一方のバッコス神は土俗というか民間信仰というべきもので、その影響力はオリンポスの神々より大きかったのではないでしょうか。

バッカス神というのは生殖神です。

この宗教はギリシャの北隣トラキア(今のルーマニア、ドラキュラの本拠)からギリシャに伝わったものです。

お酒を飲んで酔っ払うことでバッコス神と魂が触れ合い、豊饒をもたらすと考えたのです。

主として女たちがワインを飲んで酔っ払い全裸になって集団で野山をさまよい、その途中で捕まえたウサギなどの野生動物を生のまま引き裂いて食らうのです。

全身を真っ赤な血に染め放心状態になった女の大集団を見た者は、皆恐怖のあまり逃げ出したそうです。

ここに人間の本性が表れています。

未開人は計画性がなく、将来の為に今を犠牲にしようという発想がありません。

しかし文明化するにつれて計画的になってきます。秋の豊かな実りを楽しみに現在の重労働に耐えるのです。

文明化するということは国家を作るということでもあり、集団で自分たちの利益を確保するようになります。

その集団の運営の為に法律・習慣・宗教を作って組織的になります。

しかしこういう制約・我慢だけの社会に人間は耐えられません。

その反動がバッカス信仰で、その陶酔のなかで神と合一し愉悦と美を感じるというわけです。

計画性と熱狂の対立は古今東西の歴史を還流しています。

日本も決して例外ではありません。

江戸時代に何回か「お伊勢参り」が大流行しました。

ある日、伊勢神宮の神札と称するものが民家に入れられ、それを機に爆発的なお伊勢参りが始まります。

短期間に数百万人が日常の勤めを放り出し、ひしゃく(お伊勢参りの象徴)を持って伊勢神宮に殺到するのです。

この集団には幕府も道中の諸藩も商人も抵抗できません。

おとなしく道中の食事や寝場所を提供し、無事に通過してくれるのを願うだけでした。

また幕末の江戸では「ええじゃないか」が突然起きて薩長との決戦状態にあった幕府は多いに迷惑しました。これは薩長の陰謀だったという説もあります。

「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながらものすごい数の庶民が江戸中を踊り狂い幕府の機能が麻痺してしまいました。

またつい30年ほど前には、新左翼と称する若者が暴れまわっていました。

彼らは表向きはサルトルの実存主義などを掲げていましたが、無学な学生に実存主義が理解できるはずもなく、これも立派な「ええじゃないか」です。

もうすぐ会社人間にならなければならない気鬱から逃れるための陶酔状態だっただけです。

初期のバッカス神への信仰は肉体的に恍惚状態になって神と合一するという過激なものでしたが、やがてそれは精神的なものに変わって行きました。

精神的になったバッカス信仰をその教祖の名前によってオルフェウス教といっています。

オルフェウス教徒は輪廻を信じていました。

人間は一部地上に属し一部は天上に属していて、清い生活をすれば地上的部分が減少し、ついにはバッコス神と合一できるというものです。

そして神との合一によって神秘的な知識を得られると信じていました。

この神秘的要素がピタゴラスに始まるギリシャ哲学に入ってきたのです。

ピタゴラスは、「直角三角形の斜辺の長さの二乗は他の二辺の二乗の和に等しい」というあの有名な「ピタゴラスの定理」を発見した男です。

彼は数学者でしたがオルフェウス教徒でもあり、数学を使ってオルフェウス教の教義を哲学的にしたのです。

ピタゴラスには弟子が大勢いましたが、彼らは数学を学ぶと共にバッカス神への信仰も先生から学びました。

この弟子の集団を外から見ると宗教の教団のようにも見えるのです。

ですから当時の人はこの集団を「ピタゴラス教団」と呼びました。

ピタゴラスは神のことを説明するのに数学を使ったので、彼の説いていることは一面では宗教の教義ですが、論理的な哲学だという面もあるのです。

このピタゴラス教団はおかしな戒律(規則)を持っていました。

豆を食べるな
落ちたものを拾うな
パンをちぎるな
鉄で火を掻き起こすな
ツバメにひさしを貸すな
明かりをつけたまま鏡を見るな
ベッドから起きる時は布団の上に体の形を残すな

そのほかにも変な戒律がたくさんあるのですが、「豆を食うな」というのはピタゴラスが豆を食べるとアレルギーが出たかららしいのです。

こういう納得できない戒律を強制するというのは、まさにこの集団が宗教教団であったということです。

このピタゴラス教団はギリシャ中で大流行し、あちこちのポリスを政治的に支配するまでになって行きました。

ピタゴラス教団が支配権を握ったポリスで、その住民全員に豆を食べることを禁止したために、信者でない市民が反乱を起こしたという、ウソみたいな話もあるのです。

ピタゴラスの哲学を通じてギリシャ哲学に神秘的要素が入ってきました。

ピタゴラスの宗教はオルフェウス教が基になりそれを哲学で説明したものですから教義の基本的なところはオルフェウス教と同じです。

そしてオルフェウス教はバッカス信仰が発展したものですから、結局ピタゴラス教団の教義はバッカス信仰です。

バッカス信仰は酒を飲んで恍惚状態になった女が中心となっていましたから、「女性崇拝」の要素がありました。

ピタゴラス教団は男女同権を教義にしていて、このピタゴラス教から大きな影響を受けた有名なプラトンは女性参政権推進論者でした。

恍惚状態になって神と合一するのを目指していましたから、激しい感情を尊重していました。

ギリシャ悲劇はオルフェウス教の儀式から発達しました。

日本でも能が神社の神に捧げた踊りからスタートしたように、芸能というのは宗教的儀式が起源です。

そしてこのギリシャ悲劇は、激しい感情の動きを美しいものとし、冷静な者を正しくない者だと表現しています。


ピタゴラス教徒にとってこの世の生活は苦痛と倦怠に満ちていました。

そして輪廻転生によって死んでもこの苦痛から逃れられないのでした。

そこで清い生活をすることによって輪廻から脱却することがこの宗教の目的でした。

これはもう、インド人の輪廻転生の発想と同じです。

このピタゴラス教を通じてギリシャ哲学には、情熱・神秘・宗教という要素が流れ込んできました。

その一方、「定まった境界を侵してはならない」という古代からのギリシャ人の発想もあり、これは感情的でなく冷静なルールです。

この二つの要素が融合して後のギリシャ哲学が出来上がったのです。

もう一つ、ピタゴラス教団がギリシャ哲学に影響を与えたものは、ポリスの枠を打ち破ったということです。

各ポリスはそこに生まれた市民だけが信奉する神話を持っており、よそ者を排除していました。

しかしピタゴラス教団は、オルフェウス教団は「教会」と呼んでも良いような人為的な組織を創設しました。

人種や性別の区別なしに、入団式を経ることによって誰もが加入できる宗教的結社だったのです。

このようにして「生まれ」ではなく、「信仰」「信条」によって人間が評価されるという発想をギリシャ哲学にもたらしたのです。

ピタゴラス教団はギリシャ哲学に大きな影響を与えたので、もうすこしこの教団の話を続けます。

人間には見ることが出来ない理想の世界が本当の世界であり、神はそこにいて様々なものを統一しバランスさせているとピタゴラスは考えました。

様々なものをバランスさせるとは、「他との境界を侵してはならず、色々なものは本来のあるべきところにいなければならない」ということで、日本人と同じ発想です。

そして、天上からさす光がわずかにこの世界に洩れてきて、我々人間はその薄暗い光によって物をぼやけてみることが出来るだけなのです。

つまり目に見えない理想の世界が本当に存在するものであり、現実の目に見える世界は錯覚なのです。

この世は仮の姿であり肉体は霊魂の墓場なのです。

人間は神の財産であり、神は人間の主人であるから神の命令なしに逃避する権利を持たない わけで自殺は許されません。

もう皆さんもお気づきのようにこれはキリスト教と同じ発想です。

この世に見えるものは本当のものではなく錯覚だという考えは、ギリシャ哲学の太い流れとなり、プラトンやアリストテレスなどの大哲学者もこの考えに従っています。

後でプラトンの「イデア論」を説明しますが、プラトンの発想はピタゴラス教団の教義と非常に似ているのです。

そしてプラトンの哲学によって初期のキリスト教の教義が組み立てられました。

ですから、プラトンなどの哲学者の仲立ちでピタゴラスとキリスト教は繋がっているのです。

この世は仮の姿で重視すべきものではありませんから、ピタゴラス教団に入信するに際して信者は財産を教団に全部寄付し共同生活を送りました。

また初期のバッコス信仰以来の「女性崇拝」という伝統があるので、教団内では男女は平等でした。

人間は三段階があって、売り買いをするために生まれた人間、競争するために生まれた人間、
及びただ眺めるためにこの世に生まれた最高段階の人間(哲学者)がいます。

そしてこの最高段階の哲学者は、人間の浄化に役立つ公正無私な科学を考えるひとです。

そしてこの浄化により人間は輪廻転生の苦痛から逃れることが出来ます。

この最高段階の哲学者はインドのバラモン僧のようなイメージで、輪廻転生の教えも共通しており、このピタゴラス教団の教えは古代インドの哲学を連想させます。

そもそもギリシャ人は東方からバルカン半島に侵入してきましたが、古代インドのウッパニシャド哲学を作ったアーリア人は西方からインドに侵入しました。

もしかしたら、大昔のインド人とギリシャ人は同じところに住み宗教的発想を共有していたのかも知れません。

そんなことまで連想させるほどです。

theoryという英語がありますが、「理論」と訳されています。

英語でも日本語でも、「理論」とは主観や推測という不確かな要素を排除し筋道を追って出てきたものです。

このtheoryという言葉はピタゴラス教団が使っていた言葉から来ているのですが、もともとは「情熱的な瞑想」という意味です。

瞑想をしていろいろなことを数学的に(ピタゴラス教団は数学を重視していたことを思い出してください)考えている時に、急にヒラメキが来ます。

皆さんも難しい数学の問題を考えている時に急に問題が解ける時があったと思います。

つまりはあれと同じで、夢中で考えていて急にひらめいたことがtheoryなのです。

瞑想している状態(問題に集中しているいわば陶酔している状態)で閃いたことがもともとのtheoryの意味だったのですが、現在では直観を排除した理論的なものというように意味が変化してしまいました。

実はtheoryに関する古代ギリシャと現在の意味の違いが、古代哲学者と現代人の感覚の違いなのです。

現代人は閃いたものを、実験などで現実にあてはまるか否かチェックをします。

現実に当てはめてみる(すなわち帰納法的な検証)ことを経て初めてその閃きは正しいということになります。

ところが、ピタゴラス教団ではこの閃きが数学的に正しければ、そのまま真実だと考えられました。

現実のなかで検証する必要を感じなかったのです。

そして、その閃きが現実の感覚と合わなければ、現実世界が虚偽だと考えたのです。

このピタゴラス教団の考え方がギリシャ哲学の方法論の中心になり、以後19世紀初頭まで2000年以上続きました。

近代の哲学者である17世紀のデカルトや19世紀のカント、ヘーゲルまでそういう発想です。

カントやヘーゲルのドイツ観念論がやたらと難解なのは、これらのオジサンたちが閃いたものを真実だと信じ込み、そのtheoryと現実の合わないところをなんとか説明しようと屁理屈をこね回したのです。

大哲学者たちに非常に失礼な言い方になってしまいましたが、これが私が彼らの哲学を読んで得た結論です。

例えば、ヘーゲル哲学の根底にあるのは「個々の現象は正しくなく、これらをすべて統合したものが正しい」という考え方です。

そこから出てきたのが「弁証法」で、相反する二つの現象を統合したものは真実に一歩近づくと考えるのです。

ところが私には「矛盾するものを統合すれば真実に近づく」という発想は単なる思い込みとしか考えられないのです。

私は矛盾するものを統合して得られた結論は、現実世界に当てはめて検証しなければ正しいものとは云えないと考えています。

このように閃きからスタートし、そこから理屈を通して世界のすべてを説明しようとする哲学を「形而上学」といいますが、これがギリシャ哲学の主流になります。

ピタゴラス教団の影響もあって、ギリシャの哲学は形而上学になって行きました。

この世界はどういうものなのだろう、と一所懸命考えて閃いたことを基礎にして理屈をたどりながら哲学の体系を作り上げていくのです。

その結果出来上がった体系がどんなに一般常識とかけ離れていても間違っているのは現実の方だと頑固に信じ込みます。

現実は理想の世界の出来の悪い模倣に過ぎず、仮の姿で本当に存在するものではないというものです。

西洋哲学が本当に存在するものは何かという「実在論」を熱心に展開していましたが、こういう理由からです。

この形而上学を創設したのはパルメニデスという哲学者でした。

彼は、見るとか聞くとかいう感覚はあてにならず人間をだますものだと考えました。

そしてただ一つ「一なるもの」のみが本当に存在するものだとしました。

パルメニデスは南イタリアのギリシャ人ポリスの生まれでしたが、後にアテネに移住して哲学の先生になり、若いソクラテスを教えたのです。

アテネが、スパルタと並んでギリシャのポリスの中でも他を圧した存在になったのはそれほど古い話ではありません。

紀元前500年にペルシャ戦争が起こり、そのときにギリシャのポリスは連合してペルシャと戦ったのですが、その中心になったのがアテネでした。

戦争が始まった時点ではアテネと肩を並べるポリスには、コリント、テーベなどがあり、スパルタはアテネよりはるかに強大な存在でした。

しかしもっともペルシャとの戦争に積極的だったのがアテネでした。

アテネは、総動員体制をしいて陸でも海でも必死に戦いました。

そして勝ってしまったので、アテネの株が暴騰したのです。

戦後もまたいつペルシャが攻めてくるか分からないので、弱小のポリスはおびえていました。

とくにペルシャとは陸で境を接しているアナトリア半島(現在のトルコ)沿岸にあったギリシャ人のポリスはそうでした。

そういう弱小ポリスを積極的に支援したのがアテネだったのですが、他の有力ポリスは戦争が終わってしまうと他のポリスの運命には無関心になってしまったのです。

こういうわけで、弱小ポリスが集まってアテネを盟主にしたデロス同盟というものを作り上げました。

デロス同盟は軍事同盟でいわば「ギリシャ連合軍」を管理したのがアテネでした。

アテネは「ギリシャ連合軍」を維持するために各ポリスから金を徴収しました。

このようにしてアテネは、ペルシャ戦争後一躍富と名声を獲得したのです。

富と権力があるところに人は集まり文化が栄えます。

アテネは突如としてギリシャ悲劇や哲学などの文化の中心になりました。

哲学者もアテネを目指しましたが、パルメニデスもアテネで一旗挙げようとやってきて若いときのソクラテスを教えたのです。

アテネがどんどん栄えるのを他の有力ポリスが嫉妬した結果、ペロポネソス戦争という内戦が起きてしまいました。

アテネの一番の敵がスパルタでしたが、このスパルタの戦略というのは非常にケチくさく嫉妬深くて、以後のギリシャの運命が悪い方向に進んだ責任の一半を負っているようです。

そしてアテネはこの内戦で負けてしまいました。

そろそろソクラテスの説明をする段階に来たようです。

下記の年表を見てください

紀元前492年 ペルシャ戦争始まる
   479年 ペルシャ戦争終わる
   469年 ソクラテス生まれる
   431年 ペロポネソス戦争始まる
   404年 ペロポネソス戦争終わる アテネが負けた
   399年 ソクラテス死刑になる

ソクラテスはペルシャ戦争が終わって10年後、アテネが絶頂の時にアテネの中堅市民の家に生まれました。

ギリシャを二つに割った内戦であるペロポネソス戦争が始まった時、ソクラテスは38歳でした。

アテネの市民であるソクラテスはこの戦争に従軍しており、市民の義務を果たしています。

彼はなかなか勇敢だったそうです。

彼が65歳の時、アテネは戦争に負けてしまいました。

そしてその5年後、もうすぐ70歳というときに裁判で死刑の判決を受け、毒にんじんを飲んで死にました。

彼が壮年になって活躍した時代は、ペロポネソス戦争中だったわけです。

そして死刑になった理由はアテネの敗戦と関係しています。

つまり彼はアテネが絶頂の時から下り坂になる時代に生きていたわけです。

彼は著作を残しませんでした。

ですから彼の言動は弟子であるプラトンやクセノフォンが書いた内容から推測するしかありません。

そしてこの二人の弟子が書いたソクラテス像はかなり違うのです。

特にプラトンはその著作の多くにソクラテスを主人公として登場させ、「ソクラテスはこのように言った」と書いています。

「プラトンが自分の意見をソクラテスの権威を借りて言っているに過ぎない」と考えている学者も多いのです。

ですから私もソクラテスの哲学にはあまり触れず、彼の日ごろの言動やその時代背景を書こうと思います。

「君はソクラテスの友達になりたいか?」と聞かれたら私は返事に困ると思います。

プライドの高い方は彼に近づかないほうが賢明です。

彼には働かなくてもささやかな生活ができるだけの財産と奴隷を持っていました。

これは古代のギリシャの市民としては普通のことで、今の日本のようにまだ若いのに昼間からブラブラしていると人格を疑われるということはありませんでした。

アテネの市民は、ポリスという共同体のために彼の持つ時間とエネルギーを捧げることが正しいとされ、額に汗して働くことは評価されませんでした。

そういうわけでソクラテスは、二人の妻の家を往復する以外はアグラ(ポリスの中心にある広場)で市民と議論したり運動場で体育をしていました。

そしてたまには戦争に行っていたのです。

彼は若いときデルフォイの神殿で「ソクラテスより賢い人間はいない」という神託を受けたそうです。

彼はこの神託に当惑しました。

自分が無知だということは自分で分かっているが、神さまがウソを云うはずもないからです。

そので彼は当時賢者だと評判の人を訪ねて歩きました。

そうして話をして、その人物が賢者でないことが分かりその事実を相手に告げました。

当然ながら相手は怒ったのですが、ソクラテスはこうして何人も敵を作りました。

こうして彼は最後に結論を得ました。

「神のみが賢明であり、人間の知恵など価値がない。神はソクラテスについて語っているのではなく、自分の名前を例証として使っているだけだ。

ソクラテスのように自分の英知が何の価値もないと知っている人間がもっとも賢明なのだ」というものです。

これを「無知の知」といいます。

ソクラテスはアテネの中心の広場で何人もの男と議論をしました。

テーマは何でも良いのですが、その件に関して相手の言うことをじっと聞いています。

その後、相手の主張の中に辻褄の合わない部分があることを指摘します。

相手は混乱してまたおかしなことを言います。

ソクラテスはまたその矛盾を指摘します。

このようにして、相手は自分の主張していたことが矛盾だらけだったことを認めざるを得なくなります。

そのときにソクラテスは「お前が無知だということが分かっただろう。でもこれはお前だけではなくすべての人間は無知なのだ」というわけです。

相手の主張の辻褄の合わないところを突っ込むという議論の仕方は、相手を論破するのに非常に有効です。

こういう議論の仕方の元祖がソクラテスだといわれています。

日本人は相手の主張にお構いなく自分の主張をするという方法をとりますが、私はこれよりソクラテス流の議論の仕方を日本人も少しは身につけたら良いと思っています。

このようにして、ソクラテスは「無知の知」を多くの市民に分からせようとしたわけですが、プライドの高い相手が怒ってしまい、ソクラテスを殴りつけることもあったようです。

ソクラテスはこの議論の過程で、自分の意見を一切言いません。ただ相手の矛盾に突っ込みを入れるだけです。

その結果、相手は自分の主張を修正せざるを得なくなり少しは賢くなっていくわけです。

ソクラテスはこの議論の仕方を「産婆術」と言っています。

ソクラテスの母親は産婆だったそうですが、彼は男のための「真実を生むための」産婆術を行ったのです。

別にこんなことをしてもソクラテスに金が入るわけではなく敵を増やすだけだったのですが、ソクラテスの真摯な態度に感銘を受け弟子になる若者が増えていきました。

しかしはたから見たらいい年をしたおじさんが、金にならない議論に熱中し相手を困惑させ怒らせているわけで、「変なおじさん」と感じると思います。

ソクラテスの晩年に、アテネはペロポネソス戦争という内戦でスパルタを主とする敵に負けてしまいました。

そしてアテネに進駐した(占領した)スパルタ軍は30人僭主制という傀儡政権を作りました。

それまで極端な民主制だったアテネを貴族制に変えようとしたのです。

一般的にアテネは民主制でスパルタは貴族制の国だといわれていますが、あまり正確な表現ではないと思います。

古代の国はギリシャだけでなく多くの国で政治的に発言力のある市民はすべて軍人でした。

というより、命がけで国を守る男だけが政治に参加できるという発想です。

アテネはおよそ1万人の男子が参政権を持った市民でしたから、兵士を総動員すれば1万人の軍隊が出来ました。

その一万人が民主制を行ったのですが、他に政治に参加できない外国人や奴隷、女子供がいました。

スパルタも1万人の軍隊を持っていましたが、そのうち2000人は参政権を持っている完全な市民で、8000人はペリオイコイという不完全市民でした。

2000人は正規の武士で8000人は足軽という感じですね。

ペリオイコイは一応自由民でしたが参政権は無く、従軍の義務のある中途半端な階級でした。

他に農奴がたくさんいましたが、彼らは勿論兵士にはなりませんでした。

そしてこの2000人の市民の権利は平等でした。

つまりアテネもスパルタも参政権を持った市民は人口の一部分ということでは変わらず、その比率が違うというだけのことでした。

しかし、2000人という数が非常に少ないということで、スパルタ人自身も他のギリシャ人もスパルタは貴族制の国だと考えていたのです。

我々が貴族というと爵位を持ち、その爵位も公候伯子男と少しづつ差が付けられた格差社会を思い浮かべますが、スパルタの完全市民2000人は皆平等だったのです。

スパルタ占領軍は民主制を嫌い、アテネに少数が政治を行う30人僭主制という傀儡政権を作りました。

極端な民主制を苦々しく思っていたアテネの貴族は喜んで、昔の貴族が頑張る政治を行いました。

詳細は私にはよく分からないのですが、どうやら後醍醐天皇の「建武の親政」に似ていたようです。

長い間の忍従の末にやっと自分たち貴族の権力が復活したとして現実を無視して無邪気に貴族政治を行ったらしいのです。

そして建武の親政と同じように短期間で反乱が起き、復古政府は瓦解しました。

スパルタ占領軍も、30人僭主政府のあまりの政治的センスの無さにあきれ、民主制の復活を認めて、軍を引き上げて行きました。

スパルタ軍は撤兵するに際して、30人僭主政府が行った不法行為に予め恩赦を与えていて、後から民主派が貴族派に復讐しないようにしておきました。

実は30人僭主のメンバーにソクラテスの弟子が何人かいたのです。

そのためにアテネの民主派は、ソクラテスが貴族制の黒幕だと思いました。

ソクラテスの教えには別に貴族制を良いものとする考えなどなくソクラテス自身も貴族ではないのですが、彼の弟子には貴族が多かったのです。

哲学などという金にもならないことに興味を持つのは、生活に余裕のある裕福な家のぼんぼんです。

彼らの内の何人かが30人僭主制のメンバーになったというだけのことでした。

こんなわけで民主派はソクラテスに復讐しようとしましたが、恩赦によって法的に彼の責任を追及することができませんでした。

そこでソクラテスを、「伝統的な宗教を嘲笑し若者を堕落させた」と裁判所に訴えたのです。

ソクラテスは「伝統の宗教を嘲笑し、若者を堕落させた」として訴えられ裁判にかけられたのですが、この裁判所というのは専門の裁判官がいるわけではありません。

アテネの中心でぶらぶらしていた市民をかき集めて、抽選で裁判官にしただけです。

その裁判官の数が500人でしたから、これは裁判というよりアテネ市民の集会というべきです。

別に法律の専門家というものではなく、検事や弁護士もいません。

裁判ですから悪くすると死刑になります。

ですから普通ならなるべく良い子ぶってみなの気に障る発言は避けるのですが、ソクラテスは弟子の若者に対するような皮肉交じりの発言に終始しました。

自分を弁解するというより告発に対して反論するという感じで、500人の裁判官の心証を悪くし死刑になってしまいました。

アテネには死刑の判決が出ると、今度は罰金を払ってその死刑判決に替えるという制度があります。

ソクラテスが申し出た罰金の額が常識はずれの安い金額でした。

これで500人の裁判官はソクラテスが自分たちをからかっていると受け取り、その罰金額を拒否し、彼の死刑が確定しました。

死刑を待つ間に友人が大勢訪ねてきて、彼らは番人を買収しソクラテスに逃亡を薦めました。

そのときソクラテスは二つの理由から逃亡を拒否しました。

今まで若者にアテネの法を守れと教えてきたのに、その自分が法を破ることは出来ないと云いました。

また、死後の美しい世界を確信しているから死ぬのが楽しみだとも言ったのです。

こうしてソクラテスは牢屋の番人が差し出した毒にんじんを飲んで死にました。

以上のようにソクラテスは堂々と死んでいったと弟子のプラトンは書いています。

しかしプラトンは非常に有名な哲学者ですが、若いときに劇作家になろうとしただけあって読み手が感動するような見事な文章を書くのです。

ですからこの感動的なシーンも少しは割引して受け取ったほうが良いかもしれません。

ソクラテスが裁判で死刑になってしまったのは、敗戦後の特殊な政治的な理由からでしたが、もう一つ彼がソフィストの親玉だと考えられたことも原因でした。

タレスのところで説明したように、哲学というものは神話やそれから派生した慣習に対する反発から生まれました。

王や貴族がそのポリスの創始者である神の子孫だと主張し、神話の権威を独占して自分たちの政治的地位を守るのに利用しました。

このような伝統的な勢力に対抗する新興勢力が自分たちの行動原理として哲学を支持したのです。

アテネはペルシャ戦争に勝ってギリシャ世界に覇を唱えました。

アテネはもはや自分たちのポリスのことだけを考えれば良いという状態を抜け出し、他のポリスの利害関係を調整する責務を負う大国になったのです。

対立するポリスはそれぞれの慣習を基にして自分の正しさを主張します。

それを調整するアテネには両ポリスとは違う慣習があり、三者がそれぞれ違う判断基準を持っているわけで、どちらが正しいかという判断がなかなか難しいのです。

こういうわけで伝統的な狭いポリス社会の慣習に対する信頼が揺らいできました。

そうこうしているうちに、アテネはペロポネソス戦争で負け、スパルタ軍に占領されてしまいました。

いつでもどこでも、敗戦によってその国の伝統的な価値観が非常に傷つき無視されるようになります。

このことは敗戦後の日本を見れば良く分かると思います。

アテネでも伝統的な慣習が相手にされなくなり、社会は無秩序な状態になりました。

こういうときに伝統的な価値観を攻撃したのがソフィストでした。

ですから伝統的な社会を守ろうとする市民にとってソフィストは敵でした。

ソクラテスは、伝統的な慣習を守り自分は立派な市民だと思っているおじさんたちに議論を吹きかけ、「結局お前は無知なアホーではないか」と言って回ったわけです。

大いにプライドを傷つけられたおじさんたちがソクラテスをソフィストだと考えたのも、無理はありませんでした。

ソフィストは詭弁家と訳されていますが、私は非常に素直なおじさんたちだと思っています。

ソフィストには色々な考えを持つ人がいましたが、共通しているのは客観的な真理など存在しないという考えでした。

プロタゴラスは代表的なソフィストでしたが、彼は弁護士を職業としていました。

当時のアテネでは弁護士や検事などいなくて、原告も被告も本人がやることが原則でしたが、やがて議論の上手い者が代理でやっても良いということになってきたのです。

プロタゴラスは、大きな財産を弁護士稼業で稼ぎだしました。

彼の口癖は「人間は万物の尺度である」というものでした。

意見が分かれている場合、どちらが正しいかを判断する客観的真理など存在しないと考えていたのです。

そういう時は多数派の意見に従えば良いというわけです。

多数派に従うという発想から、法律や慣習など世間の人が認めているものは、それらが権威を持っているうちは尊重しました。

ソフィストたちは客観的真理など存在しないと考えていた上に、弁護士を職業としていましたから、依頼人の目的に合うように議論を展開しました。

結局、真理を追求するという態度ではなく、話の筋道を追って議論に勝つテクニックを依頼人や若者に教えていたのです。

こういう態度は、伝統的な価値観は誰が何と言おうと正しいと思い込んでいる紳士たちから見れば悪党でした。

しかも彼らは悪事を働いて巨万の富を得ているのです。

一方、どう考えても客観的真理など存在しないという考えは、現代の我々からすれば奇説ではなく非常に素直な見解だと思います。

とにかく、ソクラテスは伝統的な神話や慣習という価値観を頭から信じていない悪党の親玉だとされて死刑にされたのです。

プラトン(紀元前427年~347年)はソクラテスの弟子で、両者の年齢差は42歳ほどです。

プラトンはアテネの名門の生まれで、若いときにソクラテスから哲学や対話術を教わりました。

プラトンは西洋哲学で非常に大きな影響を与えた人です。

プラトンの哲学は弟子のアリストテレス(紀元前384年~322年)に受け継がれ、その後のギリシャ哲学の主流になりました。

そして初期のキリスト教の神学者はプラトンの哲学でその神学を作り上げました。

13世紀になってローマカトリック教会は、その神学の哲学的基礎をアリストテレスに変えましたが、この新しい神学は200年ほどでルネッサンスにより値打ちを失いました。

ルネッサンス以後の近代初期のヨーロッパ哲学は、またプラトンを基礎にしたのです。

つまり、プラトンの哲学は紀元前4世紀から紀元後18世紀までの2100年間、わずかな期間を除いてヨーロッパ哲学の主流であり続けたのです。

「客観的な真理など存在しない」と主張して金儲けに精を出していたソフィストたちをプラトンは非難していました。

本当の哲学者は哲学を金儲けのネタにはしないということなのでしょう。

しかしそういう格好のいいことは、プラトンのような裕福で生活の為に働く必要の無い者が始めて出来ることであって、哲学と金は無関係のはずです。

しかしプラトンはヨーロッパでは非常な権威でしたから、哲学者は金のことを考えてはいけないということになってしまいました。

また、絶対的な真理は存在すると主張しましたが、これがその後のヨーロッパの哲学の原則になっていきました。


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